毒姫
- 青央つかさ
- 2020年11月23日
- 読了時間: 8分
昔、毒姫という姫がいました。小さい頃から毒を飲み育てられ、ついには自身が毒となり、敵国へ暗殺者として送り込まれるのです。
しかし、毒姫に惚れた男は、なんとか姫を助けようと努力し、毒消しの薬を手に入れると、それを姫に渡します。瓶を渡された毒姫はにっこりと笑って薬を飲み干すのですが、その瞬間、毒姫は存在毎消えてしまいました。おしまい。
悲しいおとぎ話だった。何故、毒姫は自身が消えると分かっていて薬を飲んだのだろう、男と一緒になる道は無かったのだろうか、そもそも、暗殺者として育てられた毒姫が哀れで仕方なかった。
私の家庭は少し複雑で、母が幼い頃に男を作って蒸発してから、父一人に育てられた。しかし、母のようになるなと言い聞かされ、行動を制限され、少しでも父の機嫌を損ねると折檻される毎日だった。高校を卒業したら逃げるつもりで色々と準備していたのだが、突然、会社のお偉い様の息子との縁談を持ち掛けられ、断り切れずにそのまま籍を入れた。
母のようにだらしない女にならないように、お前を立派な所に嫁がせた。と父は言うが、自分の立場の為に娘を差し出しただけだというのは、18の小娘でも分かる事だ。
しかし結婚し夫となる人と一緒に暮らしてみると、これが意外と普通だった。父のように偉そうにする訳でもなく、折檻される事も無く、寧ろ私を大切に扱ってくれて、とても優しい夫に、結婚当初は戸惑いを隠せなかった。何故こんなに良くしてくれるのか尋ねた時、夫は一言「愛してるから」と答えた。その言葉に衝撃を受けたのと同時に、自分はその想いに応えられない事を恥じた。言われるがままに籍を入れて言われるがままに主婦となり、言われるがままに夫に尽くす女。そんな私が夫に対して何かを想える訳が無かった。
「隆之《たかゆき》さん、夕食の準備が出来ました」
いつものように書斎へ行き、声を掛ける。夫は机から顔を上げるとにっこりと笑って立ち上がる。
「丁度、一段落付いたとこなんだ。今日の夕飯は何かな」
「ロールキャベツです。前に好きと仰っていたので」
「覚えててくれたんだ、嬉しいな」
ダイニングへ向かうと、テーブルに並べた食事を見て嬉しそうに食べ始める。家事は小さい頃から父に仕込まれていたので、ある程度自信はあるが、こうも美味しそうに食べてくれると、作り甲斐もあるし、少しだけ嬉しく思う。
私は今、幸せなのだろう。しかしそれを実感出来ない自分に苛立ちを覚える。父という足枷を外せず、政略結婚という名の鎖に縛られて、愛してると言ってくれる人に対して何もしてあげられなくて、自分で自分を苦しめている。私なんてこの世から消えてしまえばいいのにと、何度思った事か。そうやって自分を追い込んで悲しくなっている時に限って、夫は私の頭を撫でて「大丈夫だよ」と声を掛けてくれる。その度に嬉しいのか苦しいのか分からない何かが込み上げてきて、私の思考はぐちゃぐちゃと絡まる。
「明日は久し振りに出掛けようか」
不意に、夫が口を開く。その意味が分からずに黙っていると、困ったような笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。
「休みが出来たから、良かったら一緒に出掛けない? 行きたい所はある?」
「……母がまだ家にいた頃、父と3人で水族館に行った事があるんです。そこに行ってもいいですか?」
本当に幼い記憶だ。まだ仲が良かった時、一緒に手を繋いで、水族館を観て回った。イルカのショーや色とりどりの魚たちに興奮して日が沈むまで楽しんだのを覚えている。
「分かった、じゃあ明日は水族館に行こう」
「ありがとうございます」
遠足前日の小学生のような気分だった。こんな気分になるのはいつ以来だろうか。父に行動を制限されていた私が、誰かと出掛ける日が来るとは思ってもみなかった。
お風呂に入って寝る準備をしている間もワクワクが止まらなく、明日は何を着て行こうなどと、自分らしくない自分がそこにいた。
「見て下さい、可愛いですね」
水槽内で泳ぐイルカを観ていつもよりはしゃぐ私に、夫は嬉しそうに頷く。
「あとでイルカショーもやるから、見に行こうか」
「はい」
つい嬉しくて無邪気に返事をしてから、急に恥ずかしくなった。いつもの私とは違った私を見て、この人は何を思っているのだろう。
館内を歩いていると、ふと、クラゲのコーナーを見つけた。丸い水槽を水の流れに沿ってゆらゆらと動くそれを見て、私みたいだなと思った。いつも何かに流されていないと生きていけない、流れが止まれば何も出来ない、寂しい存在だと……
あまりにクラゲを眺めているので、夫は「クラゲが好きなの」と声を掛けてきた。好きではない、ただ、自分に似ていただけ。そんな事言い出せる訳もなく、肯定だけしてみる。
イルカショーも堪能し、ショップを一通り回った後、さぁ帰るぞという時に、夫が私に小包を渡してきた。
「……開けていいんですか?」
「うん、いいよ」
中には小さいクラゲのぬいぐるみが入っていた。
「一生懸命クラゲ観てたし、好きって言ってたから。気に入ってくれるといいけど」
少し複雑だったけれど、自然と頬が緩んだ。夫なりに考えてくれて、知らない内にショップで買ってくれたのだろう事を思うと照れ臭くも嬉しかった。
不意に、夫の携帯が鳴る。何やら不穏な空気が流れる。夫は不安そうに私を見つめる。通話を切った後に私に向き合い、真剣な眼差しで告げる。
「君のお父さんが、会社のお金を盗んで、消えた」
目の前が真っ暗になった。あの父が? 何故? 私をこの人の元へ送っておいて、そんな事をするなんて。
「今すぐ会社に行かなきゃいけないけど、君は先に帰っててくれるかな」
「分かり、ました……」
急いで走り去る夫の背中を暫く眺めた後、家路へと着いた。
家に着いてからは、気が気じゃなかった。夫が帰って来るまで、ソファの上で貰ったクラゲのぬいぐるみを握りしめ、とにかく震えていた。父の犯した罪を考えると、私の人生そのものが崩壊してしまう。その後の事を考えると恐ろしかった。
夫が帰ってきたのは夜中を過ぎた頃で、疲れ果てた姿に私は何も声を掛ける事が出来ず、相変わらずソファで固まっていた。
「取り敢えず、警察には届けた。あとは君のお父さんが見つかるのを待つだけだけど……大丈夫?」
夫が心配そうに顔を覗き込む。私は顔を逸らし、首を横に振った。
「私たちの関係は、父が決めたものです。父が自分の立場を良くする為に私を差し出しました。その父が犯罪を犯したというのなら、私はどうすればいいのでしょうか」
声が掠れて上手に喋れない。だけど必死で伝えたい事を告げれば、夫は穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「君は何も心配しなくていいんだ。これは会社の問題であって、俺たちの問題じゃない。君はいつも通りの君でいてくれればいい」
こんな時まで、なんて優しい人だろう。しかしそう簡単には行かない。
「隆之さんのご両親はどう思うでしょう、きっと、私の存在を疎ましく思うはずです。私は、私は怖いです」
この生活になんの意味も見出していなかったはずなのに、今まで幸せだったのだと今更気付くなんて。
毒姫は自分の存在を消した。それは男と結ばれないと分かっていたから。自分が傍にいては、男にも自分の毒が移ってしまい死んでしまうと知っていたから。だから薬を飲み干した。今の私もそうだ、父という存在が毒であり、その毒が私を蝕んでしまったら、夫にも影響を与えてしまう。
「両親は関係無い。俺と君の問題だ」
「でも、現に父はご両親のお金を盗んで消えました。その娘を良く思うはずがありません」
「お願いだから、落ち着いて。まずはゆっくり休んで、また明日話そう」
「無理です。駄目なんです。私がいたら、隆之さんの立場も危うくなるんですよ」
毒が回り始める。もう私はここにいられない。
「君は……俺の事をどう思っている?」
言い合いが平行線になってきた時、ふと夫が尋ねる。
「俺は君を愛している。これからもずっと一緒にいたい。この想いは本当なんだ。例え君のお父さんが何をしようと、俺の両親がなんて言おうと、俺が君を愛してる事には変わりがない。でも君は?」
言葉に詰まってしまった。私は、夫を……手の中に握られていたぬいぐるみに目を遣る。それは可愛らしい顔をしていて、今日の楽しかった出来事を思い出させる。
「私は、私は……」
初めて夫と水族館へ出掛け、初めてプレゼントを貰った。クラゲが好きな訳じゃない、ただ自分に似ているから、それだけだったのに、今はこのぬいぐるみが大切で仕方ない。
「私は、私、は……」
いつの間にかぽろぽろと涙を零れていた。それを見た夫は回答を急かすでもなく、責めるでもなく、私の隣に座り頭をゆっくり撫でてくれた。
毒姫のように、潔くなれない。私は今の生活が続けばいいと、心のどこかでは思っていた。例え毒に侵されようとも、この人と一緒に過ごしていたいと、思っていたんだ。
「好きです、好きです、大好きです。私、隆之さんの事が好きなんです。お願いします、傍に置いて下さい、どんな事でもします。お願いだから私を離さないで下さい」
泣きながらも一気に告げると、夫は私をぎゅっと抱き締めて髪に口付けを落とした。
「やっと、やっと君の口から聞けた。大丈夫、俺は傍にいる。手放したりなんかしない」
涙が更に溢れる。私はここにいていいのだと、普通の姫になれたのだと、嬉しくて仕方なかった。
「今日は、楽しかったんです。隆之さんと水族館に行けて、嬉しかったんです」
「うん」
「ぬいぐるみ、嬉しかったんです」
「うん」
「また、一緒に出掛けたいです。動物園とか、遊園地とか、色々、行きたいです」
「うん」
「思い出を、今まで作れなかった分、いっぱい、作りたいんです」
「うん」
「愛してます、隆之さん」
毒姫は薬を飲むと存在が消えてしまいました。だけど、消えた場所からは、美しい曼殊沙華が生えてきたのです。男は毎日その花を愛で、生涯を終えたのです。
END
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