紫虫
- 青央つかさ
- 2020年7月24日
- 読了時間: 5分
3部構成
3つ目は蛇足です
「紫虫」
虫売りは言った。
「齧ってみなさい」
私は手の中にある、紫の虫を見つめた。
虫売りは再び言った。
「齧ってみなさい」
私は恐る恐るその虫を食べた。口に広がる美味しさは、どの虫にも無いものだった。
虫売りが黒いマントをずるずる引き摺りながら近付き、私の掌いっぱいに紫の虫とターコイズを乗せた。
「これを持って帰るといい。ターコイズは君へのプレゼントだ。なんでも好きなものを買いなさい」
一つで町を買えると言われたターコイズが、私の手にある。なんとも不思議な光景だ。
黒いツバ付きの帽子をくっ、と上げ、虫売りが片目を覗かせた。ターコイズと同じ青い目が、じっと私を見つめる。
「今日の事は、誰にも言ってはいけないよ」
その言葉に素直に頷く。
「いい子だ。それでは、早くお帰り」
持っていた布袋に紫の虫とターコイズを入れ、私は駆け出した。振り返らずに走った。本当は、帰りたくなどなかったけれど。
ターコイズの瞳を持った虫売りと、一緒にいたかった。
あの時の事をまだ覚えてる。家に帰ってからも、兄が帰ってくるまでずっと放心状態だった。
初めてみる紫の虫、ターコイズ、そして虫売りの青い瞳……空のように青い瞳は、小瓶に飾られたターコイズよりもずっと綺麗だった。
小瓶を覗き込んでは、あの日の出来事を思い出し夢を見る。もし、私が帰らずに虫売りに付いて行くと決めていたら、一体どんな未来が待っていたのだろうかと。きっと不思議で素敵だったに違いないと。
夢を見てる。
「ぱープる」
夜が更けた頃、彼女が家を抜け出したのを確かに見た。僕はなるべく気配を消し、足音を立てないように後を追う。
最近の彼女は様子がおかしかった。虫売りと話しこんでいたり、どこか遠くを見つめていたり、心ここにあらずの状態だったり……虫売りのいい噂なんて聞いた事が無い。きっと彼女は、虫売りに何か吹き込まれたに違いない。
だが、僕の目の前の光景はもっとおかしかった。
キラキラと紫の光が舞う泉の前に、僕は立っていた。泉の中には本来あるべき自身の姿は無く、虫売りと彼女が向き合っているのが見える。彼女が何かを受け取り、走り出した瞬間、視界が反転し、水の中へ投げ出された。紫の次は泡がキラキラしていて、とても綺麗だと思った。
景色は変わり、暗闇が僕を覆った。いきなり咽喉が締め付けられたように苦しくなり、思わず口を開るのだが、肺の空気が外へ逃げ、大量の水を飲み込んでしまった。
黒一色の中に二つ、青い何かが見えて、僕は地に足を付けた。
「悪い子だ。あの子の後を付けて来たのだね?」
水の中で溺れ掛けたにも拘らず、髪や服には一粒の水も纏っていなかった。
「君は何が欲しいのかな?」
その声は、いつも街に来る虫売りの声なのに、どうしてだろう、こんなに恐ろしいのは。
「お、お前は、彼女に何をしたんだ」
咽喉がひりひりした。
「何を? 何もしてはいないよ。単にあの子が気に入っただけさ」
虫売りの目に止まったなんて、他の人が聞いたら発狂するんじゃないだろうか。彼女は兄と二人で暮らしているらしいが、今夜の事を知ったら、一生彼女を家に閉じ込めるだろう。それ程虫売りは、この名の商売以外に、何も持たない存在。
「もう彼女に近付くな! 彼女の人生を奪うな!」
まだ咽喉はひりひりしていたけど、大声で叫んだ。
「近付く? 奪う? 君は何を言っているのだい? 私は虫売りで、あの子は客。それ以上の事などありはしない。勿論、あの子もそれを心得ている」
ずるずるとマントを引き摺る音が聞こえる。虫売りが近付いているんだ。黒い帽子の下では、一体どんな瞳が僕を見据えているのだろうか。
「君は帰さないよ。今夜見たモノすべてを忘れても、君はここから出られない」
黒ずくめの身体には、紫の光がキラキラ、キラキラ纏わり付き、夜の森を明るく照らしていた。
帽子がくっ、と上がり、虫売りの瞳が目の前に現れた時、僕は既に、青く透き通った瞳の虜になっていた。
紫の光と青い瞳、僕はこの奇妙な風景を、じっと、じーっと、見つめているのだった。
「私は虫売りで、あの子は客。それ以上の事などありはしない……それ以下の事なら、有り得るのかも、しれないね」
ニヤリ、笑う声が聞こえた。
「紫色に」
守りたかっただけ、あの笑顔を。ただ、守りたかっただけ……
妹の様子がおかしいのは気付いていた。それに虫売りが関わっていると知った時は、怒りや悲しみよりも、納得という言葉が胸に響いた。しかし、俺は兄らしい事を一切しなかった。妹の幸せそうな、儚げな笑顔を見られるなら、どうでもよかった。
いつからだろうか、妹の笑顔が増えたのは……表情は柔らかくなり、儚さは増し、愛らしい笑顔を向ける妹。どれだけ美しいと思った事か……ずっと見ていたかった、ずっと守りたかった、ずっとずっと、ずっと。俺に出来る事なんて何も無い、俺以外の誰かが妹を美しくしているのなら、その誰かに任せてしまおう、俺はそんな美しい妹を見ていられるなら、触れられるなら、なんだって良かった。
その笑顔を守りたいと思うのは間違っていない、俺が取った行動は間違っていない、今でもそう思うのが間違っているのだろうか。
あの日、滅多に手に入らない、幻とまで言われたターコイズと紫の虫を持って俺の帰りを待っていた妹は、紫の虫を俺に預け、ターコイズを小瓶に入れると、自分の部屋に籠もってしまった。
次の日から、妹は家事をしたら、直ぐに自室に籠もるようになった。きっとターコイズを眺めていたのだろう。一週間もしない内に、妹は姿を消した。
妹が消えた後も、俺は何もしなかった。行ってしまったのだと悟り、放心していただけ。
妹の部屋は、妹の私物で溢れている。唯一無くなった物といえば、小瓶に入れていたターコイズ。
食糧も金も虫も持たず、ターコイズ一つ持っていなくなった妹。きっと、虫売りのところに行ったのだろう。正体も分からない虫売りに付いて行ったのだろう。
俺は、妹が笑顔であればそれでいいんだ。
あの儚げな笑顔を忘れなければ、それでいいんだ。
涙が零れた。何故だろう。妹が幸せであれば満足なのに、何故涙が出るのだろう。
守りたかっただけなのに、何もしなかった自分。
守りたかっただけだと、言い訳して。
あぁ、いつまでもあの笑顔を忘れないでいてほしい、愛しい妹よ。
END
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