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月の君

 その女性は静かに佇んでいた。まん丸とした月を眺め物思いに耽っているようだ。

 女性はふぅ、と大きくため息を吐き、足取り重くその場から去って行った。俺は煙草に火を付け、先程の女性のいた場所へ行き同じく月を見上げた。

 一目惚れだった。

 その日から、毎週木曜日は近くの公園へ行く習慣ができた。ベンチに座り煙草を吸っていると、例の女性が夜にも関わらず日傘を差して静かにやって来る。何をする訳でもなくぼんやりと月を眺め、十分か二十分したら立ち去って行く。話し掛ける事もせず、俺はそれをじっと眺める。

 人気のない公園だ、相手も俺の存在は認知しているだろうに、お互いなんのアクションも起さない。なんて奇妙な二人だろう。

 そうやって毎週の楽しみを満喫していたのだが、ある日の事だ、いつも通り空を眺めていた彼女が俺の方を振り返り、こちらへ近付いてきた。

「こんばんは」

「あ……こんばんは」

 いきなりの事で反応が遅れてしまった。まさか話し掛けられるとは思っていなかった。

「こちらにはよく来るんですか?」

「あ、はい、たまに」

 何回も出会っているはずなのに、不思議な会話だ。しかし彼女は初めましてのように話し続ける。

「私もよく来るんです、ここから見る月が綺麗なので、時間がある時に」

 そんなの知っている。月を見ている事も、それが木曜日な事も、知らないのは彼女自身。

「俺も、あの、ここが静かだから、散歩がてらに来ます」

 たどたどしく答えると、彼女はそっと笑い隣に座ってまた空を見上げる。

「でも、今日は月が見えないですね。新月なんでしょうか?」

「あぁ、星は見えるんですけどね」

 ここに来る理由が彼女と会えるからで、新月がどうとか俺には分からないが、同じく空を見上げて紫煙を吐き出す。

「星も綺麗なんですけど、月の表情が時間によって変わるのが好きなんです」

「そうなんですか……」

 どう答えればいいのか分からなかった。月の表情なんてどうでも良かったし、それよりもこの会話がどこまで続くのか、そちらの方が気になって仕方なかった。

 しかし彼女はそれ以上何も言わず、別れの挨拶も無く立ち上がるとそのまま帰って行ってしまった。

 先程の時間はなんだったのだろう、訳も分からず呆然としていると、煙草の灰がぽとりと落ちた。


「こんばんは」

「あ、こんばんは」

 それから彼女は気紛れに話し掛けてきては、何かしらの会話を交わすと、別れを告げずに去って行くという行動を繰り返した。毎回ではない、彼女の気が向いた時だけ。

 次はいつ話し掛けてくれるのだろう、今日は月を眺めるだけなのだろうか、一人で勝手に振り回される。

「私、かぐや姫が好きなんです」

 急に、彼女は語りだした。

「育ててもらった人と離れて、故郷へ帰る心境ってどういったものなのか、ずっと考えていたんです」

「そりゃ、寂しいんじゃないんですか?」

 彼女はいつものようにそっと微笑み、月を見上げた。

「そうなんでしょうか。私はまだ答えを出していないんです……」

 そして何事も無かったかのように、ベンチから立ち上がり、公園を去って行く彼女を見送りながら、俺も少し考えてみた。

 自分が何者かも分からぬまま、竹から生まれ老爺たちに育てられたかぐや姫、絶世の美女と謳われ何人もの求婚者がやってくるが、無理難題を押し付ける彼女は、どんな生き方を望んでいたのだろう。月に帰るのを分かっていたのか、真実を知らずに過ごしていたのか。

 何か、宿題を出された気分だった。


 ここの所、彼女を見掛けなくなった。違う日や時間に来ているのだろうかとタイミングをずらしてみたのだが、それでも彼女は公園には現れなかった。

 彼女と出会えたのはそれから半年も経った頃だった。会えないと分かっていても懲りずに足蹴く通う俺の前に、いつものように日傘を差して月を眺める彼女がそこにいた。

 話し掛けていいのだろうか、そっとしておいた方がいいのだろうか、考えながら結局ベンチに座って煙草に火を点ける。

 数分程、月を見上げた後、俺の方へ視線を送り、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる彼女に、俺の心臓はドクドクと強く鳴り響く。

「こんばんは」

「こんばんは」

「月に帰ったかぐや姫は、やっぱり寂しくなかったんです、地上での境遇に嘆いていた彼女は、きっと月へ帰る事を強く望んでいたんだと思います」

 ベンチに座らず、目の前に立ったままいきなり告げる。

「境遇って、求婚者とか、ですか?」

 いつもと違う光景に戸惑いながらも、おずおずと答える。

「全部です、育ての親に対する想いも、求婚者たちの言動も、周りからの評価も、全部が嫌になったんです。だから月に帰る時、かぐや姫は嬉しくて泣いてたんです」

「でも、月に帰ったとして、幸せに暮らせるとは限らないですよね?」

「いいえ、月には幸せしかないんです」

 きっぱりと言い放った彼女から目が離せなくて、話の先を促すように首を傾げてみた。

「月の世界では、こちらと違ってなんの苦難も災難も無くて、悦びがみんなを包んでいるんです。だから、彼女は、幸せになっているんです」

 それは、自分に言い聞かせるような言い方だった。まるでかぐや姫と自分を重ねているような、彼女にも何か大変な事情があるのだろうか。

「月に帰る時は、俺も一緒に行っていいですか」

 ふと口にした言葉に驚いたのは、俺自身。どうしてだろう、彼女がまるで現世の人間でなく、かぐや姫のようにどこか違う世界の人間に思えてしまって、そうしたら俺もその世界へ一緒に旅立ちたいと強く思っていた。

「……貴方となら、それもいいですね」

 悲しそうに微笑む彼女は踵を返し、公園を去って行った。

 もうここには来ないかもしれない、俺は置いて行かれるのかもしれない、直感的にそう感じた。

 長年の疑問を解決した彼女に、この世に未練などあるはずがない、そうなればこの公園も、俺も用無しになるだろう。

 俺は新しい煙草に火を点け、視線を月へ遣る。あぁ、通りで明るいと思った、今日は満月じゃないか。やっぱり彼女はこのまま月へ帰ってしまうんだ。

 一目惚れだった、彼女の事など何も知らないのに、彼女の儚げな姿に惚れていた。しかし今日で終わりだ。俺たちは関わり過ぎたんだ。何もせず、ぼんやりと眺めているだけで良かったのに、知り過ぎてしまった。

 寂しさと悲しさとで、涙が零れた。どうか、どうか幸せになって下さい、月で幸せを見つけて下さい。俺はここから貴女を見つめています、いつもの曜日、時間に俺はここにいます。だから、もし俺を思い出したら、向こうから微笑んでいて下さい。




END

 
 
 

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