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白き夢物語

 俺はその白くて美しい猫に、真白《ましろ》と名付けた。


 出会った頃は小さい体がガリガリに痩せて、なんて哀れな生き物だろうと思ったが、何を思ったか俺はその小汚い猫を拾って帰ってしまったのだ。嫌がる猫を風呂に入れてやると成程、雪のように白く中々愛嬌があるではないか。これはいい拾い物をした。そう思っていた。

 猫を飼うのは初めてだったので、本を読んで勉強したり、ペットショップで必要な物を店員に聞いたりと、最初の方は色々と苦労をした。室内飼いの猫にも首輪やワクチンがいると知ったのには驚いた。これも飼い主の義務なのだとか。

 犬と違い猫は家に付くと言うが、真白は俺によく懐いた。ただのご飯係だと言われるかもしれないが、膝に乗りたいと強請《ねだ》る時もあるし、仕事の帰りには玄関まで迎えに来てくれて、一人暮らしの寂しさが紛れるようだった。

 猫用のおもちゃやキャットタワーを買って与えたりもしたが、それには一切興味を示さず、キャットタワーには寝るために上っているという、なんとも猫らしからぬ所もある。

 器用な事は苦手らしく、家具から家具へジャンプ移動する時にたまにドタッ、と落ちて「なんで私落ちたの?」という顔もする。不器用というより、鈍くさいだけという気もするが。

 膝に乗せている時の真白はとても幸せそうだ。体を丸くしてゴロゴロと喉を鳴らしながら眠る姿を見ていると、俺も嬉しくなった。足が痺れてもトイレに行きたくても、起すのが申し訳なくてそのまま数時間経過する時もあるが、これは何気に辛かった。

 しなやかな体を纏わりつかせ、すり寄ってくる姿は何よりも愛おしかったし、甘えた声で俺を呼ぶ声も美しい音色のようだ。ほんのり翡翠《ひすい》色の瞳は潤み、まるで全身で俺を求めているような気すらした。夢中になっていたのだ、たかが一匹の猫に対して。ここから歯車が狂うとは自分でも気付かずに……


 真白、あぁ、真白、愛しているよ……


 俺はただの会社員で、特別役職が付いている訳でもない、平凡な人間だ。友人には恵まれたが彼女はおらず、週末にコンビニでビールを数本買い、テレビでバラエティ番組を観ながら飲むのが日課の、大して面白くもない生活を送っていた。

 俺には好きな女性がいた。黒く長いポニーテールが特徴の、可愛らしいクラスメイト。好きではあったが告白する勇気は無く、真面目に授業を受けるその横顔に視線を注ぐだけだった。

 いつか話し掛けよう、話し掛けようと思うのだが中々実行に移せず、しかし彼女に対する想いは強くなるばかり、もどかしい日々を送っていた。

 告白しようと思った事は無かった。そんな自信も無ければ、勇気も無い。何よりも彼女は誰とも付き合わない、そんな勝手なイメージを抱《いだ》いていたからだ。しかし、彼女は他の男と付き合った。特別顔がいい訳でもなんでもない、普通の男と。

 毎日二人が一緒にいる姿を見ると、俺の中の彼女が壊れていくのを感じた。そんな笑顔を見せないでくれ、そんな仕草で近づかないでくれ、そんな優しい眼差しで見つめないでくれ。お願いだから、これ以上俺から離れないでくれ。

 俺はなんて不幸な男なのだと自身を嘆《なげ》き、いつしか俺は人を愛せなくなった。

 そんなつまらない日々の中で、見付けたのだ、彼女を、真白を。

 何故惹かれたのかは分からない。別にあのクラスメイトと共通している部分も無ければ、性格も違う、しかし、俺は本能で感じた。この腕の中にいる彼女こそが俺の求めていたものなのだと。

 俺は全身で彼女を愛した。そして彼女もいつしかそれに応えてくれるようになった。透き通った瞳を覗き込み、吐息を合わせ、全身をゆっくり撫で回し、肌を重ねた。温かな体温に包まれていると、なんとも言えない幸福に包まれた。きっと彼女も同じ事を考えているだろう、きっと彼女も幸福に包まれているのだろう。ずっと、このまま、このまま、時が止まればいいのに。すやすやと眠る彼女をぎゅっと抱き締めて浅い眠りに就《つ》いた。

「最近、いい事あったのか?」

 久し振りに友人と飲んでいた時、ふと聞かれる質問に、俺は照れ笑いを浮かべる。

「まぁな」

「何、彼女でもできたか」

 質問に濁《にご》して答えると、友人は「いつの間に見付けたんだ」とちゃかしてきた。

 彼は小笠原健《おがさわらたける》といい、俺の高校時代からの友人だ。趣味や嗜好がよく合い、たまに連絡を取ってはこうやってむさ苦しい男同士の付き合いをしている。俺と違う所といえば、四年付き合っている彼女がいて、そろそろ入籍の話も出ているという事か。

 しかし、俺も負けてはいない。彼女がいるから。家で俺の帰りを今か今かと待っている彼女がいるから。

「その彼女とはいつ知り合ったんだ?」

 健は今時流行《はや》らない紙煙草を咥えニヤニヤとした表情で聞いてくる。吐き出された紫煙《しえん》をふらふらと目線だけで追いながら、俺は答えた。

「一か月くらい前かな、寂しそうに歩いてた所に声掛けてさ、そっから」

「ナンパ? マジかよ、お前みたいな奴がナンパしたのか?」

 俺の性格を知っているからだろう、余程驚いた様子の健を余所《よそ》に、俺は再び照れ笑いを浮かべる。

「まだ付き合ったばかりだけど、お互いがお互いを理解してる感じでさ、なんていうか、運命の相手っているんだなって」

 さすがにこの臭いセリフには笑いを隠せないようで、がはは、と気持ち良さげな笑いを飛ばすと、身を乗り出しテーブル越しに俺の肩をバンバンと叩く。

「いいじゃん、今度紹介しろよ」

「近い内にな。彼女人見知りだから、紹介するにしてももう少し時間置きたいし」

「なんだよ、勿体ぶりやがって。じゃあさ、その子はどんな子なんだよ、それくらいは教えてくれてもいいだろ」

「色白で、可愛いよ。俺の事を一番に考えてくれるところも好きだな。俺もまぁ、彼女を一番に考えてるけどさ」

 惚気《のろけ》れば健の顔も綻《ほころ》び、いい彼女を見付けたなと再び肩を叩いてくる。

「お前も彼女が出来たし、俺も彼女と順調だし、二人の幸せに乾杯でもするか」

 調子のいい事を言って、ビールを追加すると、グラスを掲げてゴクゴクとそれを飲み干す。

 健とこうやって話すのは楽しいし、ストレスも発散出来る。多少の喧嘩はしてきたが、それでもこうやって付き合いが続くのはいい事だ。しかし、俺は自分の腕に着けてある時計へ何度も視線を投げる。今日は帰りが遅くなるとは伝えてあるが、彼女が寂しがってないか心配になってきた。

「悪い、今日はもう帰るよ」

「あれ、早いな」

 時計は午後十一時を指していた。いつもなら深夜過ぎても酒を交わしている俺たちだが、今日はもう帰りたかった。帰って彼女を抱き締めたかった。

「今度埋め合わせするから、またな」

 健の返事を待たずに何枚かの札を置いて、俺は急いで店を後にした。店から家まで電車で帰らなければならない距離だ、その距離がもどかしい、その時間が勿体ない。事実、電車の中でもそわそわと落ち着かず、遅く感じる秒針を睨み、目的の駅までの時間を憂いていた。

 電車を降りると小走りで家へ向かい、玄関の扉を開ける。すると、彼女が俺の名を呼びながら駆け寄ってきた。寂しかったと言わんばかりに首筋へ鼻先を押し当ててくる。

「俺も寂しかった」

 抱き寄せ唇を重ねる。彼女は嬉しそうに瞳を細め、俺の体にしな垂れかかる。あぁ、なんて愛おしいのだろう。そして、相手は健といえ、何故彼女を孤独にしてしまったのだろう。後悔が頭の中で渦巻く。

「もう寂しい思いはさせないよ、暫《しばら》くは外食も控えるし、飲みも断る。だからそんな悲しい顔をするのはやめてくれ」

 彼女の手を取り、優しく撫でながら呟くと、彼女はそっと頷く。誰よりも愛しい彼女をひと時も離したくない、そんな欲望を彼女も理解してくれている。

 真白、愛してるよ、真白。このままずっとこうしていよう、二人だけの時間を共に歩もう、もうこれからは大丈夫だ、俺たちは確かにここに存在しているよ……彼女を抱きかかえ寝室へ行くと、おやすみのキスをして、隙間のない程抱き寄せて眠った。

 それから、俺の生活は変わった。残業もしなくなり、たまに来る健からの連絡も彼女をいい訳に断るようになった。仕事が終わると真っ先に家へ帰り、休日も買い物以外は外へ出ずに彼女との時間を大切にするようになった。残業をしない事で上司には悪態《あくたい》を吐かれるし、健もなんだか俺を心配するような言葉を携帯に残して行くが、そんな事はどうでも良かった。ただ彼女といられる事が俺の全てで幸せだった。

 彼女を外へ連れ出した事は無かった。俺が仕事で出る時は鍵を掛けて、常に家の中にいるように言いつけていたし、彼女もそれで構わないとにっこりと微笑んでいた。ただ、偶《たま》に窓の外を見つめる彼女の瞳は、なんとも言えない哀愁《あいしゅう》を漂《ただよ》わせ、その度に俺はなんだか分からない胸の高鳴りを感じていた。

「真白、お前は俺を裏切らないよな」

「お前は俺と一緒にいるよな」

「出て行きたいなんて言わないよな」

 出会ってから半年が経とうとしていた。いつしか、俺の口からは彼女に対する不安しか出てこなかった。彼女は弱々しい笑顔を浮かべて、俺に体を預けるのだが、その笑顔がまた不安を誘う。愛し過ぎてどこへ向けていいのか分からない感情が彼女の笑顔をより一層儚くする。

 毎晩彼女を抱いた、全身すべてで彼女を感じた。時折漏れる吐息と喘ぎを耳に焼き付け、俺は彼女への愛を囁いた。


 真白、あぁ、真白、愛しているよ……


 彼女が家出をした。ほんの少し目を離した隙に外へ逃げ出してしまった。どうしたらいいのかも分からず、狼狽《ろうばい》し、同時に怒りが湧いた。何故、俺の元から去ってしまったのか、あんなに愛し合っていた二人ではないか、何故、どこへ行ってしまったのか。

 家の周りを探し、彼女と出会った場所を探し、それでも見つからなくて、もう一度会いたくて、夜中の道端で大声で泣き喚《わめ》いた。

 しかし、彼女は突然姿を現した。家を出てから二週間後の事だった。ごめんなさい、と泣きそうになりながら告げる彼女を、再び腕の中へ招いた。いいんだ、戻ってきてくれたならそれでいい、俺を愛してくれるならそれでいい、また二人で一緒に暮らそう、今度こそ二人で、幸せに。

 嫌な予感はしていた。女の勘ならぬ男の勘だろうか、帰って来た時の彼女の香りがなんとなく違うような気がしたし、謝罪の言葉を述べながらも俺への態度が余所余所しく感じていた。その予感は見事に当たった。

 彼女が帰ってきてからひと月程経った頃、俺はある事に気付いた。妊娠している、と。あの時の家出は、他の男へ会う為の家出だったのだと思うと腹立たしく、怒りは当然彼女へと向かった。

「どうしてだ、どうして俺を裏切るような事ばかりをするんだ、愛してるのは俺だけじゃなかったのか!」

 手当たり次第に物を投げつけ、彼女自身へも手を上げた。何度も、何度も。その度に彼女は「ごめんなさい」と謝罪の言葉を紡ぐが、俺の耳には届かなかった。

 暴力は何日も続いた。彼女はすっかりボロボロになり、俺も彼女への愛と怒りで憔悴《しょうすい》しきっていたが、どうしても許す事が出来なかった。わざと腹を殴り、他の男のガキなんて死んでしまえと呪いの言葉を吐き続けた。そのせいか、そのお陰か、彼女は本当に流産してしまった。自身の子を亡くし悲しみに泣く彼女を優しく抱き寄せて、もう俺しかいないのだと分からせた。

「浮気は許してやるから、俺とずっと一緒にいよう、な」

 それでも泣き続ける彼女にまた俺は爆発する。手を上げては優しく包み込み、そしてまた手を上げては愛の言葉を囁いた。そうしている内に、彼女も分かってくれたのか、それからは俺の傍を離れないようになった。俺はそれがとても嬉しくて、過去を水に流す事に決めた。あの時は俺の愛が足りなかったのだ、それに不満を持って火遊びをしてしまっただけなのだ、本当は俺を愛しているのだ、だからこそ今彼女は俺の腕の中にいて、出会った時のようなボロボロな体になりながらも、俺に忠誠を誓っているのだ。


 真白、あぁ、真白、愛しているよ……


 最近、なんだか頭がぼうっとしている。まるで夢の中へいるような、全身の倦怠感《けんたいかん》に襲われている。そんな俺の横にはすやすやと眠る彼女の姿がある。あぁ、このままでいいのだ、きっとこれは俺たちの世界なのだ。

 仕事も行かなくなった。買い物にすら出なくなった。最後に風呂に入ったのはいつだろうか、最後に食事を摂《と》ったのはいつだろうか、それでも彼女が隣にいてくれるだけで、俺は俺でいられる気がしていた。

 遠くで携帯が鳴っているのは分かるが、そんな事を気にしている気力も無かった。

 真白、真白、俺の真白、漸《ようや》く俺の元へ来てくれた真白、愛しい真白、可愛い真白、俺の真白、もう離さないよ、もうお前だけでいいんだ、お前さえいてくれればそれでいい。

 彼女の愛用の毛布を掛けてやり浅い眠りに就こうとした時だった。部屋のインターフォンが鳴った。誰だろう、頭の中の疑問は睡魔によって薄れていく。しかし音は鳴り止まない、次第にそれは扉を叩く音へ変わり、怒号のような声が響く。

 ガチャガチャとドアノブを回す音が聞こえ、ドタドタと誰かが廊下を走ってくる。

「何やってんだよ!」

 懐かしい顔がそこにはあった、友人である健だった。

「どうしたんだよお前、彼女が出来たって言ってから連絡取れないし、会社だって行ってないって聞いたぞ」

 一気に捲《まく》し立ててから、健は俺の姿を認識したのだろう、一瞬にして顔から色が無くなった。

「お前……本当にどうしたんだよ、なんだよその姿」

 何日も自堕落《じだらく》な生活をしていたのだ、姿見た目が変わっていても仕方ない。

 事実、俺の頬はこけ、髭は伸び放題だし髪もボサボサで、生気があるとは言えない。

「あぁ、悪いけど、後にしてくれないか。彼女が寝てるんだ」

 そんな事よりも、折角眠っている彼女が起きてしまわないか、そっちの方が心配だ。

「彼女って……」

 再び浅い眠りに就こうとした俺の毛布を引き剥がし、健は横にいる彼女を目にして、更に顔色を無くした。

「嘘だろ、猫、だよな?」

 その言葉は俺の脳内に素早く巡り、奈落の底へ突き落されたかのような感覚が湧き上がる。

「違う、真白は真白だ、俺の真白なんだ!」

「馬鹿じゃねぇの? 何言ってんだよ、しっかりしろよ、猫だぞ? 猫相手にお前今まで何してたんだよ」

「違う! 違う! 違う!」

 俺は彼女を抱きかかえその場から逃げ出そうとしたが、すっかり衰えた体は言う事を聞かず、呆気なく彼女は健に奪われた。

「おい、この猫、死にそうだぞ」

 健は傷だらけの体を見て呟く。そんな訳ない、彼女は生きていて、俺の傍にいるんだ、死にそうなんて、そんな事、ある訳ない。

「真白を返してくれよ、大丈夫、真白は俺を愛してくれてるんだ、少し眠いだけだよ」

 懇願《こんがん》すればする程、健の顔が険しくなっていく。

「やめろよ、そんなお前、見たくないよ」

 彼女を腕に抱いたまま、後ずさりしていく健に、俺は精一杯の叫びを向ける。

「返せ! 真白を返せ! 俺の真白だ、もう誰にも渡さない! 俺だけのものだ! 真白、真白、真白、真白、真白!」

 瞬間、ぷつりと音を立てて俺の意識が途絶えた。弱った体に無茶をしたのだろう、


 真白、あぁ、真白、愛しているよ……


 目が覚めた時、俺は点滴に繋がれた状態で横になっていた。辺りを見渡すと、ベッドの横に少しやつれた母親が座っていて、俺の顔を見るや否や小さい悲鳴を上げて部屋から飛び出て行った。そこからは慌ただしいもので、医者や看護師が部屋に押しかけ、矢継ぎ早に質問やら今の状態、これからの治療についての説明を浴びせてきた。なんでも俺は、栄養失調で倒れ、救急車でここまで運ばれ、三日間起きなかったそうだ。会社は勿論クビになっていて、遠方に住む母親がずっと着いててくれていたとか。

 そうやって徐々に自分の状態を確認していた時、俺はある一つの事を思い出す。

「真白は?」

 俺の一言に、母親が一気に顔を歪めた。

「あの猫の事?」

「猫じゃないよ、真白だよ、彼女は? 健に奪われてそのままなんだ、彼女に会いたい」

 今の今まで俺が無事だった事に嬉し涙を流していたのに、今度は悲しげに涙を流す。

「お願いだから、正気に戻って。お前が彼女だって言い張ってたのは、ただの猫なの」

「何言ってるんだよ、真白は真白だろ」

 俺を見る目がどんどん変わっていくのが分かった。息子を見る目では無かった。

「猫、猫なの。ただの猫。しかも、お前はあの猫を虐待してたの。保護した時はもうボロボロで……」

 そこで口を噤《つぐ》む。何か言いにくい事でもあるのだろうか、無理矢理体を起こし、母親に問い詰める。

「真白をどうしたんだよ」

 言っていいものなのかどうなのか悩むように、目が泳いでいる。嫌な予感しかしなかった。

「流産した跡と、虐待の跡があったって。すぐに病院に連れて行ったのよ。お前が異常な程に固執してるのは分かってたけど、可哀そうだったから……でも、助からなかったの」

 頭の中が真っ白になった。虐待? 助からなかった? 俺が彼女を殺したのか? 俺がもっと彼女に優しくしていたら良かったのか? 手を上げた事も確かにあった、流産もさせてしまった、最後の方はよく覚えていない、そういえば食べ物はどうしていた? どうしてだ、どうしてこんな事になってしまったんだ、俺の好意が彼女を傷付けていたというのか。

「ああああああああああああ」

 誰の雄叫びかも分からない、喉が痛い、耳に痛い、俺はどうなってしまったんだ。

 直ぐに医者と看護師が飛んできて、俺を押さえつける。腕にチクリと何かが刺さったのを最後に、また俺の意識が飛んだ。


 真白、あぁ、真白、愛しているよ……


 あれから、俺は長らく精神病棟に入院していた。極度の妄想癖《もうそうへき》と統合失調症だと医者には言われたが、あの時の自分をよく覚えてはいない。幸いな事に面会はできたので、母親や健がよく見舞いに来ては、近況などの世間話をして俺を落ち着かせてくれた。退院した後、自宅療養の為に実家に帰ったが、母親がそっと小さな壺を渡してくれた。彼女の遺灰だった。異常なまでに執着していた彼女を、火葬して遺灰まで保存してくれていた母親には感謝以外の何物でもなかった。小さくなってしまった彼女を手に取るが、あの頃のような爆発的な感情は襲ってこなかった。ただただ、慈しみの心で溢れて仕方がなかった。

「真白、ごめんな。俺、最低な奴だったよ。もっと大事にしてやればよかった。俺ばっかりが幸せで、お前の事、何も考えてなかった、本当にごめんな」

 遺灰の入った壺は、後にペット霊園へ預ける事となり、俺はやっと彼女への未練を断ち切った。

 自宅療養と言っても、症状も落ち着いていた俺は何もする事が無く、とにかく再出発しよう、こんな俺でも支えてくれた家族や友人に恩返しをしようと、まずはアルバイトから始める事にした。最初の内は慣れなかった仕事も徐々に覚え、アルバイトから非正規ではあるが雇用を受け、今では実家を出て一人暮らしを満喫している。

 健とも、以前のように時々顔を合わせては、居酒屋で下らない話をしている。しかし、俺を気遣ってか、健にとってもトラウマなのか知らないが、彼女の話はなんとなく触れてはいけないものとなっている。そんな健も付き合っていた彼女と入籍し、来年の春には結婚式を挙げると言う。友人代表のスピーチを頼まれ、恐縮ながらも受ける事にした。

 今日も酒を飲み交わし、終電ギリギリで帰路に着いた俺だが、少々飲み過ぎたのか足元がおぼつかない。だが気分はとても良かった。駅からアパートへの道は短いが、酔った勢いで寄り道をしようと、いつもとは違う曲がり角をゆき、自動販売機で珈琲を買うと丁度近くにあった公園へと足を向けた。

 ベンチに座り空を仰ぐと、満天の星空が目に映る。小さい頃は、死んだおじいちゃんはお星様になったんだよ、と教えられてきたが、彼女もこの星空の中で輝いているのだろうか。天国に行って、幸せでいてくれるだろうか。そんな感傷的になりながら、珈琲をちびちび飲んでいると、爽やかな風に紛れて何かが俺の背中をビリリと走った。

 ベンチに珈琲を置いたまま、立ち上がる。夜の公園は電灯が少ないせいかかなり暗い。そんな暗い茂みの中から、小さな、ほんの小さな声が聞こえた。

 俺は完治したんだ、そうなんだ、彼女はもういないし、未練も断ち切った。だから、コレが何であろうと、俺には関係ない。関係ないんだ。そう思っていても、体は言う事を聞かない。茂みを掻き分け奥へ進むと、そこにはダンボールが置かれており、中には小さく、ガリガリになった子猫が入っていた。薄汚れてはいるが、きっと綺麗な白い猫だと分かるソレは、翡翠色の瞳を俺に向けて、また小さく鳴いた。


 真白、あぁ、真白、愛しているよ……



END

 
 
 

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